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INTERVIEW 宮本敬士(『usually just a T-SHIRT』デザイナー )前編

INTERVIEW 宮本敬士(『usually just a T-SHIRT』デザイナー )前編

2020.06.08 / INTERVIEW

『CONVERSE』のALL STARが手に入らなかった時代。熊本のシャワー通りには、『CONVERSE』を筆頭にマウンテンパーカーやデニムシャツ、ウエスタンブーツなど、その時代の人は見たことも無いような海外製品が所狭しと並び、映画からそのまま出てきたような風貌の青年達がたむろし、熱心にカルチャーを語って服を売る全国でも異質な店があった。そこはセレクトショップの原型を作ったと言われる有田正博さんが開いた『OUTDOOR SPORTS』という店である。そして今回お話を伺った宮本敬士さんもそのムーブメントに魅せられたひとりだった。宮本さんに人生を振り返ってもらいながら、その記憶を通して当時のファッションや音楽について色々と語ってもらった。

 初めてファッションに興味を持たれたのはいつ頃ですか?

宮本 小学校の時かな。俺の住んどった地区は小学校が三つあって、そん中で一番市街地に近い小学校に行きよったんだけど、市場の八百屋の息子が『Munsing』とか『McGREGOR』とか『LACOSTE』とか着とって、お洒落な奴だなと思いよった。

 確かにお洒落な小学生ですね。その友人がファッションへの興味のきっかけですか?

宮本 いや、でもねそれよりはお袋の影響が強かったかもしれん。俺体が大きかったけん小学校の制服が入らんだったとよ。みんなダブルのグレーのジャケットだったけど、サイズが合わんけんそれをシングルのジャケットのように着とった。ズボンも指定はグレーの半ズボンだったけど、お袋がそれは絶対履かせんだった。熊本の岩田屋伊勢丹にあった『UNIVERSITY SHOP』でネイビーの半ズボンば買ってもらってはきよったね。とにかくお袋が「揃いのグレーのズボンとか着て行かんでいい」って言って譲らんかった。親戚の結婚式に行く時とかネイビーのブレザーにボタンダウンシャツにアスコットタイとか着せてもらっていきよった。



 変わったお母さまですね。

宮本 そうね。お袋は音楽も好きで、初めてElvis PresleyとかRay Charlesとか教えてもらったのは覚えとるね。親父はジャズが好きだったけん日曜の朝はレコードをかけるって決まっとって色々かけよった。お袋が特に好きだったのはSimon & Garfunkelで、よく『El Condor Pasa/If I Could(コンドルは飛んで行く)』を聞いていた記憶がある。映画も好きで『West Side Story(ウエスト・サイド物語)』も若い頃、何十回も観たって言いよったね。そん時はレコードのジャケットとか映画とかしか外国の情報なかったけんね。そこで出てくる人達の真似をしたいっていうのが、今考えたらファッションに興味持ったきっかけだったかもね。

 なるほど。その頃、宮本さんが一番好きな映画はなんだったんですか?

宮本 格好いいと思ったのは『12 Angry Men(12人の怒れる男)』かな。Henry Fondaが主演の陪審制度をモチーフにした、ほとんど部屋の中で話が進む映画ばってん。その設定とかストーリーも面白かったけど、そん時の服が格好よかったとよ。ポロシャツにネクタイしとったりね。Henry Fondaは白のスーツだしね。映画の最後、Henry Fondaが部屋から出て階段ば降りていくシーンの背中がかっこよかとよね。

 その頃聞いていた音楽はどんな音楽ですか?

宮本 音楽は、小学校4、5年ぐらいの時から意識して聴き始めたね。まあもっと小さいときはテレビで見ていたアニメの主題歌とか歌謡曲とか聞きよったけど、だんだんお袋の影響でElvis PresleyとかThe Venturesとか聴き始めて。それで日曜日の昼過ぎに『テレビジョッキー日曜大行進』っていうテレビ番組がありよって、白いギターば景品でもらえるコーナーがありよった。その番組の途中に流れる『EDWIN』のジーパンのCMでバックに『She loves you』が流れとったったい。お袋にこれ何って聞いたら、The Beatlesって教えてもらって、その足で熊本駅の駅前書店のレコードコーナーに行って、レコード買ったたいね。裏が『I’ll Get You』それからすぐにThe Beatlesのデビューアルバムの『Please Please Me』を買って、毎日ずっとそれば聴きよったね。

 世の中的にもThe Beatlesが流行ってたんですか?

宮本 全然。5、6年前にThe Beatlesは解散しとるけん。まして小学生だけん周りに洋楽とか聞いてる人がおらんだった。ただ中学に上がったらポツポツ好きそうな奴がおったりして。そん時は他校の先輩にはパンチパーマかけとるチンピラみたいな人がいっぱいおったけど、うちの中学はそういう人は少なかった。一番覚えとるのは、先輩の下駄箱に『CONVERSE』のALL STARが置いてあって、紫とかゴールドとか紺とか靴であまり見ない色があって。格好よかーと思いよったね。そこで始めてアメリカを感じた。そういう先輩もいるんだなあって。



 バンドはいつ頃始められるんですか?

宮本 中学1年生の時にどうしても楽器がやりたくなって、ただ当時よく映像が流れる訳でもないし、写真がたくさんある訳でもないし、何が何かわからんかった。ジョンが持ってるのがギターで、ジョージもギター。ポールが持ってるのは弦が4本しかないなみたいな。その時、上通りの質屋にポールが使ってた『HOFNER』のヴァイオリンベースのコピーの『Greco』のヴァイオリンベースが置いてあるのを見つけて。お年玉で1万円貯めて、それでも足らんけん、友達の一番金持ちの地主の息子に相談したら、すんなり2万円貸してくれてやっと手に入れたよ。

 恐喝ですか(笑)?

宮本 いやいや、そういう感じじゃなかよ(笑)。その後も仲よかったし、お金もちゃんと返したと思う。

 なるほど。そしてその友人とバンドを始めたんですね?

宮本 いや、そいつじゃないとたい。バントを組んだとは地元の名士の息子。そいつがギター持っとって一緒に始めた。そいつが持っとるギターは『Greco』のなんかいっぱいスイッチが付いてるギターで、色々音が出るやつでようわからんかった。中学二年ぐらいでパンクのムーブメントがでてきたね。その時は『サタデー・ミュージック・スペシャル』っていう、かなぶんやさんという方がやりよったミュージックビデオばっかりかける熊本ローカルのテレビ番組があって、それば見て勉強しよった。The Clashとか、Sex Pistolsとか、Elvis Costelloとか、The Policeとか、Wingsとか、The Knack『My Sharona』とか。ほぼほぼThe Beatlesは出てこんかったけど(笑)。

 まさに手探りですね。

宮本 そうね。チューニングもどうしていいか分からんし、今は電子チューナーがあるけど、そん時は無いけん音叉ば使ったりレコードに合わせてチューニングしよった。そしたらついにその名士の息子が電子チューナーば買ってきて、練習前にそれば借りてチューニングしよったら、全然音が合わんで、どんどん巻きよったら固ーくなってきてビンって切れてから「切れた」て言うたら、そいつが「ボリューム上げんと音拾わんよ」って。そんなの分からんたい。先言えよってカンカンに怒って。でも借りとるけん何も言えんで、上通りの西野楽器に自転車で一時間半かけて、3弦ば1本だけ買いに行って、また30分かけて張り直したりしよった。

 青春ですね(笑)。ちなみにその時はどんな服を着ていましたか?

宮本 その時はね、確か『adidas』のウィンドブレーカーに『Levi’s』のジーパンに『CONVERSE』のALL STARば履いとったね。

 ついに憧れの『CONVERSE』ですか。

宮本 そう。『adidas』のウィンドブレーカーはデパートのスポーツ店で買って。でも『CONVERSE』はどこも売ってなくて。なんなら最初はブランド名も分からんけん、お袋がたまに連れて行ってくれる『REGEL』に、『CONVERSE』のONE STARによう似たハイカットのスニーカーが売ってあって、それば買ってもらって履いとった。でもそれはONE STARで言うところの星のマークの位置にRって書いてあって、違うなーって思いよった。その時は、デパートとか、上通り下通りみたいな商店街の専門店に服を買いに行くのが普通だったけど、1軒だけ商店街の外れに全く違う雰囲気の『OUTDOOR SPORTS』っていう有田さんがその時やってた洋服屋があった。そこは上通り下通りみたいにアーケードがなくて雨ざらしの通りだったけん、シャワー通りって呼ばれよった。だいたいはいわゆる風俗街よ。でもその『OUTDOOR SPORTS』には表にマウンテンパーカーがかけてあって、その下にはウエスタンブーツが置いてあったり、革ジャンとかネルシャツとかデニムシャツとか他の店では見たことないようなもんがいっぱいあって、格好いい人達がいつもおった。とにかく異空間って感じだったね。



 その『OUTDOOR SPORTS』で『CONVERSE』のALL STARを買ったんですか?

宮本 そう。始めは恐くて入られんけん、店の前を自転車で永遠に行ったり来たりして様子をうかがうだけだった。ある日、意を決して店に入ったら雰囲気に圧倒されて、目当ての『CONVERSE』だけすぐに買って、焦っとるけんサイズもろくに見らんで逃げるようにして帰ったね。

 その時代からするとかなり異質なお店だったんでしょうね。そういうお店は全国には他にはあったんですか?

宮本 たぶんあったんだとは思うよ。でも、有田さんがだいぶ早かったと思う。

 なるほど。では、有田さんが『OUTDOOR SPORTS』を開店される前はそういったお店はなかったんですかね?

宮本 いや、熊本だともともと『サンコー』ていう店とか、沖縄出身の東濱さんという方がされてた『OUR HOUSE』ていう店があって、そこがいわゆるそういうお店だったらしくて、有田さんはそこにいらっしゃったらしいとたい。木下さん(Dice&Dice創業者)も行かれてたみたい。でもそこら辺はちょっと俺は詳しくは分からんけん、有田さんとか木下さんに聞いてみるしかなかね。



 いやあ、とても面白い話ですね。ありがとうございます。僕もこのまま話をうかがっていきたいところですが、一旦時系列に戻して整理してもいいですか?

宮本 そうね。ところで藤くん、こんな感じで大丈夫?

 もちろんです(笑)。

宮本 だったら良かばってん(笑)。

 このままの感じで続けてください。宮本さん次は中学3年ですね。

宮本 中学3年はほとんどバンド漬け。練習したりライブしたり友達の家でやりよった。平家の普通の家で人呼んでライブしよった。隣で友達のお母さんが内職しよったり。特に苦情も無かったし、たまにお母さんが「あんたたちだいぶ聴けるようになってきたね」とか言ってくれたりね。そのライブに友達の福田が来とって、無茶振りでThe Beatlesの『Come Together』ば歌えって言って歌わせてから、そっから福田に火がついた。福田の家は板金屋で結構裕福で、使用人さんを住まわせるプレハブが実家の敷地にあったけん、空いてるプレハブにドラムセットば持ち込んで、秘密基地みたいな感じで、休みの日は朝から晩までバンドの練習ばしよったね。福田は今は熊本でレコード屋ばしとる。

 映画の中の話みたいですね。



宮本 そうこうしよったら高校受験で、俺は私立の九州学院って街中にある高校に行きたかったとやけど、そこは落ちてしまって。滑り止めの高校に行くしかないねって思っとった。そしたら、ここでまたお袋が「そんなとこ嫌々行かんで良か。行きたくないとこに行ったって一緒」って言い出して。そう言われたけど、一応公立の試験受けに行ったとだけど、やっぱり嫌になって二日目の試験はもう受けんだった。

 その後どうしたんですか?

宮本 浪人よ。でも浪人って言ってもどうしていいか分からんけんが、中学校の勧めで浪人生がいく松楠塾っていう塾に行くことになったとよ。行ってみたら3クラスもあってびっくりした。名物の塾長がいて、おまけに外部講師で軍人上がりの国語の先生とかも来とったね。毎日7時間授業で純粋に勉強したい奴もおればそうじゃない奴もおって混沌としとった。

 その時も、バンドは続けてたんですか?

宮本 いや、そん時は流石にやってなかった。

 ですよね。次の年は大丈夫でしたか?

宮本 大丈夫だった。九州学院に受かって、晴れて高校生活がスタートしたんだけど、始めっからやっぱり浮いとったと思う。気も遣うし。そこで考えて、1年も2年も関係なく一緒に遊べばよかたいと思って、いっつも夜ディスコとかに一緒に遊び行きよった。

 その時代のディスコはどんな感じでしたか?

宮本 そうね。もう進学も高校で終わりと思っとったけん勉強も全然せんで、その頃は緩かったけんばんばんお酒も飲みよったし、そこにおる大人よりも楽しんどったね。ディスコのファンクっぽい音楽とかはあんまり興味なくて、DJの人達も早かとだろうけど、ちょっとチャラチャラしてる人が多くてあんまり興味なかった。有田さんの新しい店の『Blaze』の店員さんとかの方が格好よくて、高校になって服は全部『Blaze』で買いよった。巷ではDCブランドが流行とって『MELROSE』とか『BIGI』とか『COMME des GARCONS』とかね。みんなそのブランドのビニール袋、黒に金でBIGIって書いてあるやつとかを、学校の第二鞄で使うのが流行っとたりね。でもそういうのもちょっとチャラチャラして見えた。まだ全然リーゼントに短ラン着てる奴も普通にいたけんね。でも俺たちはパーマかけたり、びしっとと刈りあげて七三に分けて、冬はウールサージ地の学ラン。夏は大きめのボタンダウンシャツ着て、パンツは『BEN DAVIS』とか『Dickies』とか履いて、靴は『Top-Sider』だったね。『CONVERSE』もおったけど『Top-Sider』のホワイトとかネイビーが格好よかったね。冬は学ランの上から、白のステンカラーコートば着とった。

 白のステンカラーコートってめちゃくちゃお洒落ですね。

宮本 学校の指定はネイビーなんだけど、白をThe JamのPaul Wellerが着とったとよ。じゃあ白だろうってことで。九州学院の先輩たちもお洒落だったよ。なんか単純にお洒落というよりも綺麗だった。俺が同じ中学校で憧れとったアランドロンに似とる先輩も九州学院だったしね。話はちょっと戻るけど、おじさん家が健軍空港の真裏だったんだけど、その辺りでバイク乗りよったの兄ちゃん達は『カワサキマッハIII』『ホンダCB750』とかば曲乗りしたりして、バイク降りたらコームで髪の毛ば綺麗に七三に分けて、チノパン履いてボタンダウンシャツにローファー履いとった。いわゆる族っぽい人達よりもかっこいいと思っとったね。そういう人たちの中に有田さんもいたらしい。有田さんも九州学院の先輩で、在学中に『TAKE IVY』とかばみて影響受けてから九州学院で『オール九学アイビースピリットファンクラブ』ってのば作っとったとよ。そのクラブは純粋にファッションば楽しむクラブやったんやけど、他校の奴らもわざわざ見に来たりしよったらしくて、木下さんは中学校の時からそのクラブとか周りの人達に遊んでもらいよったらしい。

 なるほど。有田さんは高校生の頃から目立ってたんですね。



宮本 そうと思うよ。情報が無い中、有田さんはいち早くアメリカのファッション文化に刺激を受けて、それを体現しようとしてたんだろうね。72年に沖縄が返還されて、熊本と沖縄の物の行き来が盛んになって沖縄から米軍払い下げのアメリカ製品が熊本に流れてきてた。『OUR HOUSE』の東濱さんも沖縄出身だし。そういう環境が有田さんやその世代の人たちに影響を与えたのかもしれない。この時代、熊本がファッションで先端だったのはそういう背景があるとかもしれんね。

 なるほど。そういうことだったんですね。宮本さんが有田さんのお店に通われていた時はどんな感じでしたか?

宮本 『OUTDOOR SPORTS』から『Blaze』に変わって。週2とか3とか通っとったね。『Blaze』は店舗の前半分と後ろ半分がフィッティングで分かれてて、前半分は『OUTDOOR SPORTS』のテイストを引き継いでアメリカの感じ、後ろ半分は『Paul Smith』とか『MARGARET HOWELL』とかがセレクトされとって、『Church’s』とかの靴も置いてあった。そんなに広くはない店だったけど当時は常に5~6人スタッフの方がいた。みんな格好よくて、毎回行くたびに新しい情報を教えてもらえるけん嬉しかった。



 スタッフの人数が多いですね。

宮本 そうよ。だいぶ後で有田さんが、スタッフが何でこんなに多いか話してくれた事があるとだけど、ある時、有田さんが大阪の『帝国ホテル大阪』に行かれた時に衝撃を受けたって。熊本にも『キャッスル』とか『ニュースカイ』とか色々ホテルはあるけど、スタッフの数が全然違うって。入っただけで2、3人に見られて、何かしたい事があればパッと2人ぐらいが付いてくれる。お客さんよりも店員さんの方が多い方が格好いいんじゃないかって。もっとサービスしてあげれる方が、楽しいんじゃないかって思った。それが理由だったらしい。

 今ではあまりない発想ですね。つくづくおもしろいお店ですね。

宮本 お袋が、確か誕生日かクリスマスの時に『Blaze』に行って「息子の取り置きがあれば払って帰ります」て言ってくれた事があったとだけど、いつも接客してくれていた清水谷さんという方が「これは宮本くんがアルバイトしてお金貯めて買いに来るって言いよったけん、それはやめてください」って言いなったらしい。俺としては「余計なこと言って」と心の中で思ったけど……。お袋は、なんか安心した感じで「私もそう思う、あんたが買いなさい」て。そんな事されたらまた行きたいなと思うたいね。

 めちゃくちゃいい話じゃないですか。

宮本 そんな時に『Blaze』の中川さんという方から「宮本くん高校卒業したらどうするとね?」って聞かれてから、次行った時には「うちでアルバイトせんね?」って言ってもらって、高校3年の夏休みからアルバイトを始めた。高校卒業して正式に入社して、3ヶ月ぐらいは『Blaze』で、その時は『MARGARET HOWELL』のシャツに『Levi’s』の501ば履いて、ギャリソンベルトして、靴は『Trickerʼs』のウィングチップでコバの張った。確かハウエルが始めて別注したとやなかったっけ。そして、バンダナばバックポケットからチラッと覗かして。靴下は『Byford』ってとこのカラフルな靴下で、下着は『SUNSPEL』。今でも格好よかろ。

 確かに今でも格好いいです。



宮本 正直、ハウエルのシャツは始めて見た時感動した、イングランドメイドでのストライプのワイドスプレットでダブルカフス。3万近くしたけど格好よかった。当時はバイイングは有田さんがほとんどやってたと思うけど、今みたいに情報がほとんどなかけん、ブランドば見つけるのも、何の手がかりもなかけんほとんど直感。『MARGARET HOWELL』も『Paul Smith』も初めはほとんど無名だけん、直接連絡とって、ホテルの一室でベットの上に服ば広げて見せてもらいよったらしいもんね。

 宮本さんは二人に会われたことはことはあるんですか?

宮本 ポールは展示会で毎年2回来よったよ。毎回目の前にポールが座って質問をしろって言われるんだけど、俺とか結構的外れだけん、『JOHNSONS』の店についてどう思うかとか、パンクムーブメントに何か影響を受けたかとか、喧嘩腰に結構際どか質問ばしてみんなドン引きしとった。イギリスに始めて行った時に、ポールの店に行ったとばってん感動した。テイストにしろ、アイデアにしろ、什器にしろ、ポールの世界観が綺麗に表現されとって、洋服屋というよりはポールのアトリエのごたとこやった。日本にはそんなとこなかったもんね。

 なかなかできない体験ですね。素直に羨ましいです。

宮本 ハウエルさんも一回熊本でお会いしたね。ハウエルさんが来るってことでお客さんば呼んでパーティーばしたとたい。東京からも色々人が来て、有田さんの事を尊敬してたり、少なくとも対等に話されてたり、熊本の洋服屋が第一線で注目を集めていることを感じて鼻が高かった。そん時福岡からこられてた木下さんに始めてお会いしたとよ、木下さんは『MARGARET HOWELL』のリバティの白シャツば着とって、俺そのシャツにケータリングのピザば付けてしまって、そん時は木下さんは「全然良かよ、気にせんで」って言いよったとだけど、後々木下さんから「もうあれからあのシャツ着とらんもんね」って言われた(笑)。

 やっぱり気にされてたんですね(笑)。ところでパーティーはよく開催されてたんですか?

宮本 当時からデザイナーを呼んでお客さん呼んでっていうパーティーていうのは結構しよったよ。ちょうど今のダイスさんでやっているような感じ。なかなか本当に身近にデザイナーに会えるパーティとかは日本中見てもなかなかなかったとじゃないかなと思う。

 今のダイスのパーティーはそれを受け継いだ側面もあるでしょうね。

宮本 そうかもね。それからすぐ有田さんが『movement』って新しい店ば作るって話になって、福岡から帰ってきた木下さんと浅田さんと清水谷さんって方の3人で『movement』が始まった。その店は『Blaze』と違ってバリバリのヨーロッパスタイルの高級感のあるお店で『クローラ』とか『カルチャーショック』とか『HEMISPHERES』があった。少し後から俺も参加するんだけど。いい接客したら木下さんが褒めてくれたりして、一喜一憂しながらやってて楽しかった。『Blaze』とか『movement』の一員ってことで誇らしかった。

 その頃関わっていた方々は、時代の最先端を担っている実感があったでしょうね。



宮本 でもね、ある日なんか時代が一段落つく雰囲気があったとよ。夜の音楽がコロッと変わってレゲエとか『RUN-D.M.C.』とか、服は『STUSSY』とか『Dr.Martens』のつま先を切ったりとか、でも俺は天邪鬼だけん、そん時は絶対せんと思っとった。


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