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帽子と文庫本1

YAECA

帽子と文庫本1
帽子と文庫本

私は先日帽子を購入した。YAECAのリバティプリント生地のハットである。白地に鮮やかな草花柄のとても素敵な帽子で、思わず一目惚れをして購入した。少々誤算だったのは、こんなにも素敵な帽子なのに、私が被るとかなり怪しくなってしまうというところである。道を歩けば、すれ違う人々の奇異の視線を感じることがしばしばである。しかし、恥ずかしながら目立ちたがり屋の私は、そんな視線も満更ではない。とにかく私はこの帽子を非常に気に入っている。

私はリバティプリントを目にすると、必ずあるものを連想してしまう。それは文庫本である。これは先日マルゼンの古本フェアで買った、古い岩波の文庫本である。リバティプリントを見ると、私はこのような文庫本の表紙にある草花柄のデザインを思い出してしまうのである。

ちなみに現在の文庫本は、この上からカバーがかかっていることがほとんどだが、昔はカバーが無く、これにグラシン紙という半透明の紙がかかっただけの状態で店頭に並んでいたらしい。今となってはカバーによって見られることの少なくなったこのデザインも、昔は立派な表紙だったのだ。

このような草花を抽象化した柄は、ヨーロッパでも日本でも古くから用いられてきた。人類が最も親しんだ図案のひとつと言って過言ではない。したがって、リバティプリントと文庫本、それらを草花柄という点のみで関連付けてしまうのは少し乱暴な気もする。しかし折角なので、あえてそこから関連性を考えていきたいと思う。

博覧会とジャポニズムブーム

リバティプリント生地は、1875年アーサー・ラセンビィ・リバティによってロンドンに開業したリバティ百貨店の商品である。この店は開業当初は日本や東洋の工芸品を販売する店として繁盛していたようである。ではこの時代、日本とイギリスはどのような関係を持っていたのか。

もちろん現代のようなインターネット等の情報技術は無く、異国の文化に触れるためには何かきっかけが必要であった。19世期そのきっかけの一端を担ったのが「博覧会」というイベントだったようだ。

1798年、フランス革命時期のパリで国内博覧会が開催された。初めは王立工場再建のための販売会だったのだが、産業発展に使えると、時の内相ド・ヌフシャトーによって国家事業化された。1849年まで計11回の国内博覧会を実施し大きな成果を出した。

この「博覧会」という形式はヨーロッパ各国やアメリカなどに輸出され、こぞって国内博覧会が開催されるようになった。1851年、ロンドンで第1回国際博覧会(万国博覧会)が開催され、「博覧会」は遂に国境を越えた一大イベントへと成長した。

日本はその3年後、1854年日米和親条約を締結。約200年続く鎖国を解消し開国した。鎖国の影響で、それまでごく僅かな国交しかなかった日本から、これを機に有形無形様々な日本文化の輸出が始まった。

そもそも、その時代はナポレオンのエジプト遠征により、ヨーロッパからの東方への関心が異様に高まっていた時代でもあった。

そんなオリエンタリズムに沸くヨーロッパへ、東方の中でも極東に位置する日本から200年閉ざされていた未知の文化が流入する。その衝撃は相当のものであったのは想像に難くない。

1862年、第2回ロンドン万国博覧会。日本は正式な参加ではないものの、駐日英国公使ラザフォード・オールコックが自ら収集した日本の美術品や日用品を展示するというかたちで、日本文化が博覧会で初めて紹介された。

これをきっかけに、日本文化が一般に広く認知されることとなった。日本文化は主に芸術等の分野に於いて、様々なかたちで受容され、巷では「日本趣味」を意味する「ジャポニズム」がブームとなった。

帽子と文庫本2へ続く


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